朝はだめ、昼は居眠り、夕方一時がんばり、夜は疲れた。あなたもこんな毎日を送っていないだろうか。これを人生にあてはめてみると、子供のときも青年期も今ひとつで、中年でちょっとひとふんばり。老年は惰性と、あまりほめられたものではない。朝は時間が3倍に使えるという。すると、朝の1時間は昼の3時間、朝の3時間は昼の9時間にあたる。朝6時から9時で仕事をすれば、残業おまけ分の仕事はしているという計算になる。事務的な仕事はシステムをしっかり考えて効率化していくと、すぐに3倍くらいの能率向上はできる。昔ながらのシステムでやっているからだめなのだ。
単純労働も同じだ。引っ越しのプロはわずか1、2時間で完全な仕事をする。私は単純労働をやらせたら、その人間の創造性のほとんどがわかると思う。アウトプットされる分が量として目に見えるからわかりやすい。単純労働で早くて質のよい仕事ができる人は能力がある。ましてや頭脳労働であればどうだろう。数倍どころか無限の差がつく。数学の問題でも、解ける人には5分で解けるものが、力のない人は一年かかっても、いや一生かけても解けない。
企業は、この差を平均にならし、組織というクッションで緩衝してきたから、個人は本当の自分の力というものがわからなくなり、企業から出るに出られなくなってしまった。定年まで終身雇用制、給与保証のうえで、ポジションとやりがいを間違いなく与えてくれた時代は、わからないままのほうがよかった。企業への依存心が忠誠心と活力ともなったからだ。しかし今や大企業は、わからないことをはっきりさせようとやっきである。当たり前である。企業が拡大志向の発展をやめたとき、余裕がなければ否応なしに、人の評価は個人レベルではっきりしてくる。そして企業から個人評価をつきつけられ、その厳しさに愕然としてしまうのが、自らが企業を支えていると信じてがんばってきたサラリーマンなのだ。
今、最も時流を得ているのは、ゲームソフトの開発者と漫画家であろう。何となく想像がつくが、こういうクリエイティブな活動を量、質、期限から迫られる人は短眠生活にならざるを得ない。ノリのよいときに続けて何時間も進め、仮眠でそれまでの流れを後につなぎ、そして次々とアイデアを出していくといった具合である。ゲームソフトのように面白いかどうかだけで売れ行きが決まってしまうモノの開発に携わる人は、企業内でもフレックスタイムより自由で、かつ仮眠室を自由に使えるという環境におかれている。これは今後、企業の現場の環境づくりに大きなヒントとなるだろう。